第2回 「10分で十分」

第2回 「10分で十分」
言い訳させてしまう日課は無用

人間は言い訳をする唯一の動物である。

 失敗した時に、他人を怒らせないように言い訳するのは、まだ可愛い。しかし、意味もないのに自分に対して言い訳するのは醜悪である。「1時間早起きして毎日30ページずつ本を読もう」と決意した人がいた。早起きを始めて1週間もした頃には、前日飲みすぎて寝坊する。

 そうすると、「今日は、出勤まであと15分しかないから無理だな」と自分に言い訳して読書しない。次の週には、朝食が長引いて3回読書を休み、その翌週には寝起きでボーッとして7回読書を休むようになる。そのたびに「あと30分しかない」「あと18分しかない」と自分に言い訳をする。

 悪課(悪い日課)は良課(良い日課)を駆逐する。そのたびに自分への言い訳に利用されるのが「時間」である。

 だから、脱時空勉強術は、時間を言い訳にさせない。やるべきことは、たった1つ。「時間がないなあ」と思った瞬間に、「10分あれば、十分だ」と自分に反論するだけである。これを「十分ルール」という。


時間の固まりを解きほぐす

 すべての勉強を10分単位で把握しよう。1時間連続で勉強してもよいが、それを10分×6単位と考える。例えば、30分スケジュールが空いていたら「1単位は英単語の筆記、2単位は会計本の読書にしよう」と、空き時間にいろいろな10分を詰め込んでいく。

 10分という短い時間だから、これだけで、驚くほど時間が生まれてくる。死蔵されていた時間の断片が掘り起こされる。

 しかも、10分は短いのに、結構長い。10分あれば、本を5ページ読める。ワープロで400字打てる。朝の連ドラもおおよそ見られる。インターネットで「10分間」を検索すれば、英語・国語・フィットネス、いろいろな10分間の使い方が現れてくる。

 やるべき勉強を全部10分で終わらせろと言うのではない。10分を何個つなげても自由である。ただし、癒着させてはいけない。空き時間と集中力の度合いに応じて、10分単位で予定を切り上げたり、延ばしたり、自在に時間を操るのが脱時空勉強術。

マルチ処理は人間の本能

 「細切れに勉強すると頭に入らない」という人がいる。言い訳である。人間は、マルチ処理の達人。テレビチャンネルをザッピングし、コマーシャルの合間にお菓子を齧りながら雑誌に目を通しても、テレビと雑誌とお菓子が頭の中で混ざることはない。

 仕事だって同じである。検事は、10件以上の刑事事件を同時並行で処理しなければならないことも多いが、窃盗事件の取り調べの後に、公然わいせつ事件の起訴状を作ったからといって、真っ裸の犯人が泥棒したと混乱する検事はいない。

 特に訓練しなくても、人間の頭は異質な情報を区別し、同質の情報をまとめる機能を持っている。雑多で断片的な勉強でも、頭の中では、それなりに整理されているのである。

 芸術家のように一心不乱にひとつの物事に打ち込む姿を理想にするのはやめよう。一気に首尾一貫した美しく整然とした成果を残そうとするのはやめよう。同じことを長時間続けると集中力が失われ、形式だけを追うようになる。

 十分ルールは、効率的な勉強を促す。時間の隙間に、沢山の科目・多様な勉強方法を詰め込んでみる。見た目は美しくない。でも、黙読、ビデオ、聴き取り、メモ取りなど五感をフルに使ったインプットとアウトプットを行うことで脳に刺激を与えるから、集中が途切れず、知識が身につきやすい。


見通しがよい10分間

 また、10分だから自分のやるべき事・やった事を簡単に見渡せる。人間はゴールが目の前に見えると力が出る。短時間の勉強だからこそ、人間が勉強内容をコントロールすることができる。たった今勉強したばかりの成果を見渡すことができるから、その成果を何にどのように使うか、考えるだけの余裕が生ずる。

 逆に、長時間同じ勉強を続けると、目的と全体像を見失い、勉強を終わらせるためだけに勉強を続けることになる。短いナイフは便利だが、長すぎる槍は使えない。自分がコントロールできないほど長時間の勉強は、時空の限界の中で、無用の長物と成り下がる。勉強を10分単位で切り分けて、時間をマルチに使いこなすことで、時間が生まれ、能率が上がり、身につけた知識を使いこなせるようになる。

 十分ルールは意識改革。準備もいらない。道具もいらない。しかも、時間がみるみる生まれてくる。この文章を、どんなにゆっくり音読しても、長くて10分。脱時空勉強術の第一歩を学ぶのも、「10分あれば十分」なのである。