――技ですねぇ。
BOØWY (氷室京介、布袋寅帯、松井常松、高橋まこと)30th ANNIVERSARY「BOØWY 1224 FILM THE MOVIE 2013- ORIGINAL SOUNDTRACK 」(フィルム缶パッケージ【CD2】2枚組・ステッカー付き
で、そんな仕組みがだんだんわかりかけてきたときで。子安くんに「ひとつ力を貸してください!」みたいなことを言いにいって。そして、担当していたレコードを返品させようって思いついて。でも、返品は東芝EIMの紙袋一つにしかならなかったっていう(苦笑)。それぐらい彼が担当していたレコード店っていうは小さいとこばっかりで。ますます「大丈夫なのかね、この人は」って思いましたよね(笑)。まぁ結果として良かったのは小安さんは頑張ってくれて、レコードに関しては全権委任で全部やってくれたってこと。それともう一つ、密約があって(苦笑)。レコード会社と俺の意見がバッティングしたときに、俺の意見を聞いてくれって約束させたんだ(笑)。「おまえレコード会社の言うこと聞いていたらただのサラリーマンでしょ? 俺の言うこと聞いたらただのサラリーマンじゃなくて、マネージメントの意向に沿った一歩進んだディレクターになれるよって(笑)」。「レコード会社がダメだっていっても、俺の言うこと聞いてよ」って。あいつがどう思ってたかわからないけど、新人なんで聞いてくれましたよね。キャリアがあるやつは「ああ、わかりました!」って言って聞いてくれないんだけどね(笑)。そんな幸運にも恵まれて。でも、BOØWYの連中は「大丈夫なの?」って(笑)。「だったら徳間とか、ビーイングのヤツの方が、もっと音楽わかったんじゃないの?」とか、恐ろしいことも言ってましたよ(苦笑)。

――実は子安さんは大滝詠一さんの書生だったんですよね。

そうなんだよね。実はすごいヤツだったんです。で、溜池にあったEMIの中二階にあった一部屋で、曲が集まってきたので子安さんと第1回のレコーディング会議を行いました。まず、プロデューサーを誰にしようって話になって。どこでどういう話になったのか……俺はそこで初めて話を聞いたので、俺が言いだしっぺではないんですけど、四人囃子佐久間正英っていう名前がでたの。布袋が盛りあがったんだよね。俺としては、バンドの当時の気分だと「四人囃子ぃ? ないよ〜」みたいになるかと思ったんだけどね。あ、そうだ、候補として四人囃子佐久間正英さん、伊藤銀次さん、そして一風堂土屋昌巳の名前を、EMIが出してきたんだよね。

――後に日本を代表するロック・プロデューサーとなる、なるほどの3組ですね。

で、順番に会ってみましょうとなって。伊藤銀次はそのころEMIのアーティストのプロデュースをやってたんで、馴染もあったんでしょうね。でも、第1回目に会ったのが佐久間くんで、曲を聞きながら「これはこうだよね、あれはこうだよね」って話して。でも、近寄れたって感じではなかったんです。そもそもが「1stアルバム『MORAL』とか2ndアルバム『INSTANT LOVE』みたいなやりかただったら絶対に売れないねっ」て話で。「ああいうのが好きなヤツだったら良いんだろうけど、それだけじゃダメだよね」って。でも、当時はまだそんなシーンがなかった時代だったんだよね。

―ー開拓の第1歩ですね。

第1回目のときからシェイクハンドで進むようなものでもなかったけど、最後に佐久間くんが「レコーディングはベルリンがいいよ!」って言ったの。全員で「ベルリン!?」ってなって(苦笑)。「ベルリンにハンザ・スタジオってスタジオがあるんだ」なんて言ってたら、布袋が「デヴィッド・ボウイが使ったスタジオじゃん! 行きましょうよ!!!」ってなって。もう本人たちはその気になって、佐久間くんOKで話が終わっちゃって。「子安にどうする?」って。「そんな金ないです」って(笑)。「だいたいヨーロッパまでいくらかかるんだろう?」って(苦笑)。でも結局、話が盛り上がっちゃったので伊藤銀次や土屋正巳と会う約束を断ったんです。で、しょうがないのでベルリンのスケジューリングを考えてみたんですよ。3週間だったかなぁ……4週間か。リズム、ダビング、ミックス、プラスアルファ。帰りにロンドンのマーキー・クラブでライブもするっていうプランニング。結果、アルバムとシングルのレコーディング費用が○○○万になったんです。

―ーお〜、具体的な。

大きい旅行代理店ではなくて、ちっちゃい小口の学生街の旅行屋を周りにまわって、一番安いチケットを選びました。でも、安いかわりにリスクが高いんですよ。東京から乗り継ぎ地点まで行って、そこで悪天候でベルリンまでのフライトがキャンセルになったらもう使えないチケット(苦笑)。すべてがその日のその時間に飛行機が動くっていう前提でチケッティングして。それに海外でレコーディングだなんてはじめてでしたから、コーディネーターが必要だってなって、あとエンジニアも大事ですよね。佐久間さんが教えてくれたのか……以前、根津甚八のレコーディングをハンザ・スタジオやられたときに出会ったというマイケル・ツィマリング。ドイツ独特のハンマービート・サウンドですね。そういう「新しいサウンドが似合いそうじゃない?」って提案もあって。

―ーBOØWYサウンドの要、マイケル・ツィマリング登場ですね。

そして、コーディネーターは加藤宏史さんって方がロンドンでやられているL.O.E. ENTERTAINMENTになったんです。佐久間さんに加藤さんを紹介されて手紙を書いてお願いしたんですよ。レコーディングは2月26日からだったから、その前年の11月頃は1ヶ月間くらいは毎日東芝EMIに通っていました。その当時は国際電話かテレックスしかなかったから、東芝EMIの国際部が毎日ロンドン本社とテレックスで情報のやりとりをしていたので、その作業の合間に加藤さんに「アンプはこれを用意していただきたい!」とか「何月何日の飛行機で行くので、何時に迎えに来てほしい!」とか「ロンドンのマーキー・クラブは幾らで使えるんでしょうか?」とか「リハーサルスタジオはどうなんでしょうか?」とか「こっちの予算はこれくらいなので、ダビング、ヴォーカル、リズム録り、ミックスダウンまで出来ますか?」。「ミックスダウンは一週間じゃできない」って言われたんだけど「予算がないからなんとかこれでやりくりしたいんです」とか、そういうのを全部テレックスでやるワケ。国際電話は高いからね。

―ーネットもメールも無い時代ですもんね。

そう。FAXもまだ無かったから。最初は全部英語でやってたんだけど、こっちが言いたいことは山ほどあるじゃないですか? さっきも言ったように一番安いチケット買ってるんで、一つ違っちゃうとどうしようもない。リカバーできないんです。だから確実に準備だけはしっかりやっておきたくて。海外ライブなんてはじめてなので「マーキー・クラブでのチケットは幾らにすればいいか?」もわからない。だいたい「ライブにどうやって人を集めればいいのか?」とかね。それを毎日加藤さんに雨あられのように質問するんですけど、英語じゃどうにもなんないので、俺ローマ字で書いたのよ、テレックスだから。「こんにちは」「K、O、N、N、I……」みたいなね。で、加藤さんは自分でテレックスを打てるんで、ローマ字で帰ってくるの。ローマ字読んで、ローマ字で返事を書いて、それをEMIの法務に持っていってローマ字で打って送ってもらってたの。「いい加減にしてほしい!」って怒られてさ(笑)。ギリギリにお願いすると残業になっちゃうからね。なので、業務は17時半で終わるので、15時までに持ってきて欲しいと言われて、朝8時くらいにEMIに行くんですよ。そうすると前の日に届いたテレックスがEMIの菅谷の机においてあるんです。そこを陣取ってそのやりとりをずーっとやってたの。

――そうとうな縁の下の力持ちってヤツですね。あの時代に海外レコーディングとライブって大変ですよね。

で、いよいよレコーディングでベルリンへとなったんだけど、加藤さんから、自分の他の仕事がぶつかってしまって自分は行けないと(苦笑)。で、この会社は日本人は加藤さんだけで、あとは全部イギリス人だそうなんですよ。俺が「えー!」ってなってたら「ミュージシャンで信頼できて、コーディネートとか間違いなくできるヤツがいるから」って紹介してくれたのがクマ原田だったの。

――布袋さんや今井美樹さん仕事でもお馴染みのクマさんですね。実は、イギリスでも有名な実力派ミュージシャンなんですよね。

俺もBOØWYの連中も、クマさんに会ったのはベルリンの空港がはじめてという。第一印象は「髭をはやして髪の長い人だね〜」って。空港で「クマさんですか?」、「ああ、糟谷さ〜ん!」って感動したよね(苦笑)。あ、その前の余談なんだけど、テレックスで通信のやりとりをしている時代に、EMIの誰かが「アメリカでFAXっていうのが発明された!」っていうんだよ。「FAXってどういうの?」って聞いたら、書いた紙をそのまま遅れるんですよ、日本語で大丈夫なんです!」って。「え〜! そんな夢のようなマシンがあるんだ」って思いましたね(苦笑)。そして、2年ぐらいして、ユイにFAXが導入されたんです。その時、俺くらい喜んだ人間はいなかったですね(笑)。「うわー! FAXだぁぁ!」って。そこまで喜ぶかってほど喜びましたよ。

――時代を感じますねぇ。ちなみに、ベルリンでのレコーディング、その後にロンドンでのライブ、さらに、フォトセッションをされて、ヴィジュアル・イメージも作られるという。今でも画期的なプランだと思いました。ストーンズも出演された名門マーキー・クラブでのライブはどのようにして決まったのですか?

きっと言いだしっぺは俺だと思うんだ。あ、加藤さんが「レコーディングが終わったら、ロンドンに来てライブもやる?」って提案してくれたんだったかな……。まぁ半年間ライブ禁止っていってたから(笑)。ご褒美みたいな感じだよね。「ライブ再開はロンドンだぜ!」って(笑)。あと、撮影もやりましたね。

――フォトグラファー、ハービー山口さん登場ですね。

で、ロンドンにはEMIからアーティスト担当として鶴田正人がきたんです。BOØWYのプロモーション戦略なんだけど、俺はニッポン放送だとか文化放送だとか、ラジオ関西、ラジオ関係は強かったんだけど。雑誌に強かったのがユーミンをやっていた鶴田だったんだよね。鶴田がこれだ、これだって言ってくれるのが、聞いたことも読んだこともないような音楽誌なワケ。鶴田に相談して、鶴田が取材は「ここがいいんですよ、とか、写真がいいのはここですよ」とか「ライブのレポートはここが真剣にやりますよ」とかを教えてもらったね。で、当時は音楽評論家の平山雄一がその辺に詳しくって、平山は長渕のときにも付き合いがあったので、相談に行ったんですよ。「カメラマンはハービー山口が、ロンドン在住ですっごいいから紹介するよ」って。「向こうでずっとミュージシャンを撮り続けているし、ロケーションにいくときに自分で車を運転してくれるよ」って。それで、クマがいてハービーがいれば大丈夫だなって。

――こうしてチームが結集していくのですね。そういえば、BOØWYはファッションにもこだわりがあったと思います。スタイリングは?

当時グラスっていう洋服屋があって、そこの北川っていう営業部長だか宣伝部長だかが、たまたま俺の知り合いの友達だったの。グラスに行くと売れ残った在庫商品があったんですね。倉庫に連れてってくれて「ここにあるヤツ、好きなのがあれば持っていっていいよ」って(笑)。俺も自分の洋服を見に行ったし、土屋も行ったんじゃないかな。BOØWYの連中も行ったね。俺はトレンチコートなんかを貰ったりしてたのね。でも、BOØWYのメンバーは、トレンチコートって感じじゃないもんな。その流れで紹介されたのがスタイリストの大久保篤志だったんですよ。

――そんな流れがあったのですね。

で、大久保篤志と付き合っているうちに、いまはマガジンハウスという名前になった会社の雑誌『平凡パンチ』が「東京」をテーマに特別号(1985年3月18日号/フォトグラファー森川昇)を出すって話を聞いたのね。「BOØWYのメンバーが格好良いからモデルで使わせてくれないか?」って言われたの。で、面白いから六本木の事務所までメンバーを連れていって、なんか本人は「『平凡パンチ』ってなんだよ?」って感じだったんだけどね。で、その場で布袋も氷室も後ろに長くのばしてた髪をチョキンって切られてさ、『平凡パンチ』のモデルになって10ページくらい載ったんだよ。ライブハウス時代のイメージとは違うBOØWYが、全然違う角度で世に出ていったんだよね。そういうラッキーがたまたま重なってたんだよ。すごく面白いと思ったのは、俺がBOØWYのマネージメントをやるようになったんだけど、チームとしては俺の知り合いをつないでいったんじゃないんだよね。そうじゃなくって、ベルリンでもロンドンでも東京でもはじめて知りあう人ばっかりでチームが出来ていったんです。子安も佐久間も加藤もクマもハービーも鶴田も。平山はちょっと知ってたけど、それから大久保もね。BOØWYと仕事するのって面白いなって思いましたね。メンバーも、どんどん違う景色がみられるんだから面白かったんじゃないかな。


――BOØWYプロジェクトは、すごい求心力を持っていたということですね。

そうだね。ほんと面白い出会いだよね。そしてベルリンの話に戻るんだけど、空港にクマさんがいて、ハーヴィス・インターナショナルっていうベルリンの壁の近くにあるホテルに泊まりました。ブランデンブルグ門があって、その西側の壁の近くにハンザ・スタジオがあって。ホテルは、氷室と布袋が一部屋。松井とまことが同じ部屋で、俺は土屋と子安さんと一緒の部屋。佐久間さんはプロデューサーなのでシングルで。で、ハンザの日々がはじまるんだけど、一階にあるカフェのメニューもドイツ語でよくわからないんだけど、佐久間くんは「一週間くらいすると目で読めるようになりますから」って言うんだよ。まさかと思ってたけど、意味はわからないんだけどなんとなくこんな感じなんじゃないのかっていうのはわかるようになるんだよね(笑)。あとは町の方の店に醤油やら洋辛子も売ってて、とんかつ風なヴィーナー・シュニッツェルにかけたり、つけたりして食べてたよね。美味しかったな。

――初の海外レコーディングといえど、食については困らなかったんですね。

そうだね。ベトナム料理屋があって、そこは旨かったな。あとはソーセージの屋台が町の角々にちょこちょこあるのよ。そこで一番うまいカレー・ソーセージを食べてたね。レコーディング中は時間もあるし、けっこう散歩もしたかな。俺も全部スタジオに子安や佐久間や布袋みたいに張り付いていたワケではないんで、ヒムロックと町に出てソーセージ食ったり、松井やまことと出かけて、ビール飲んだりしてましたね。

――佐久間さんに聞いたんですが、ハンザ・スタジオはもともとヒトラーの娯楽施設で、それが後にスタジオになったらしいですね。

あ、そうなんだ。知らなかったねぇ。3階は半分がスタジオで、半分がビリヤード・ルームだったんだよ。ダビングやってるときはメンバーとビリヤードで遊んでたかな。で、作業が終わったって言われたら聞きに戻るっていう。ビリヤードの隣のスタジオでは、ニナ・ハーゲンがレコーディングしてましたよ。あと、ハンザ・スタジオの隣の左側がレストランだったんですよ。ホテルでは、ロックバンドのフィッシュが一緒でした。俺は知らなかったんだけど、バンドの連中は知ってて。好きなバンドだっかたどうかはわからないけどね。振り返ってみると、BOØWYビーイングにいて、ビクター、徳間でリリースして。でも上手くいったりいかなかったりっていう歴史があって。途中でメンバーが変わって、土屋が参加して。そして、俺も一緒になってきた歴史というか流れがあって。あるとき、バンドにとって科学反応が起きたんだよね。すごくマジックな感じで。今まで付き合いのなかった連中と一気に関係性を構築できたってのは、俺の人生の中でそうはないもんね。まさかベルリンに行くなんて思ってなかったから。