最終回 矛盾に悩み、矛盾を楽しむ

最終回 矛盾に悩み、矛盾を楽しむ
勉強に大団円はない
 自民党麻生太郎幹事長は、漫画マニアで秋葉原のオタク層に人気がある。漫画やアニメを見た量で出世が決まるとすれば、私も総理大臣候補の1人と言われる資格がある。生まれてからこの方1万5381日の間に、これまで1万冊以上の漫画を読み、100種類以上のアニメを見てきた。

 この私の分析によれば、漫画やアニメの最終回には3種類ある。(1)大団円型、(2)余韻型、(3)独善型である。


未来少年コナン」「ルパン三世」「新世紀エヴァンゲリオン

 大団円型は、最終回に至るまでのストーリーに仕込んだ伏線をきれいにまとめて、言いたいことを語り尽くし、一件落着させる。「未来少年コナン」など宮崎駿監督の作品はほとんどが大団円型である。うまい大団円は、見る者を安心させ、満足感を与える。古典的な名作は、例外なく、見事なまとめをしていて、職人芸を感じさせる。

 しかし、下手な大団円をやると、見る者にこぢんまりとした印象を与え、すぐに忘れ去られる作品になりがちである。

 余韻型は、最終回で一応の結論を出すが、未解決の伏線を残し、見る者の想像を煽る終わり方である。余韻型は、見る者に適度な飢餓感を与え、その心に引っかかりを残すから、うまくやれば、ずっと記憶に残り続ける作品が出来上がる。しかも、最終回が終わっても謎が残っているから、第2弾を作りやすい。アニメで言えば、ルパン三世の第1弾の最終回は余韻型の代表だと言えよう。

 しかし、下手に余韻を残そうとすると、見る者には、期待していたものが得られない不満のみが残されることとなる。

 独善型は、見る者の期待などおかまいなく、作者が終わりたいように終わる方法である。「新世紀エヴァンゲリオン」の最終回がこれに当たる。当然ではあるが、独善型の最終回は、ほとんど失敗する。

 しかし、最終回までの展開が素晴らしい場合には、見る者に強烈な飢餓感を生じさせ、最終回についての様々な憶測を呼び、大ブームを引き起こすきっかけとなる可能性もある。

 アニメに限らずとも物事の終わり方は多々あるが、大団円で終わるのが文字通り丸く収まり、都合がいい場合が多い。例えばビジネス文書は、基本的に大団円を理想とする。上司や顧客の要求に対し、的確な結論を示すことで、彼らを満足させるためのものだからだ。もっとも、ビジネス文書の世界でも、下手な大団円で終わっては、印象の薄いものになってしまうのは漫画と同じである。

 それでは勉強はどうか。


勉強に完結はない

 勉強には大団円はなく、常に余韻型でなければならない。

 どんな勉強でも、時間的場所的制約の中で一応の区切りはある。学校の宿題、試験勉強、仕事上必要な情報の収集などすべて締め切り日が設定される。そして、その日に勉強の成果を他人に示さなければならず、そのOUTPUTにおいては、大団円で対応するのが普通である。

 しかし、自分にとっては、締め切り日が大団円になってはならない。たとえ締め切り日のOUTPUTが大団円で終わっても、自分に不足しているものや次の課題を意識して、次のステップに歩み出さなければ
人間が、学ぶ限り、働く限り、次々と締め切り日はやってくる。課題ごとに大団円はあっても、その後もまだ人生は続く。人生には大団円はなく、勉強にも大団円はない。

 ついでに言えば、脱時空勉強術の最終回も大団円では終わらない。勉強に大団円がない以上、勉強術にも大団円はないのである。

 連載当初に書いた通り、私はいわゆる「勉強法」が嫌いである。「勉強法」にこだわり始めたとたん、「勉強法」の実施のために勉強するようになり、「勉強法」を実践できないと勉強ができていないような気になってしまう。

 「勉強法」なんてどうでもいいのである。目の前にある勉強をちゃんとやっていれば。

 脱時空勉強術では、いろいろな方法論を紹介してきたが、そのほとんどが「心の持ち方」「考え方」の話である。千差万別の個性ある人間に普遍的に対応できる勉強法はない。


常に最適の勉強の仕方を探り続けよ

 1人の人間ですら、成長の度合いによって、最適の勉強法は変化していく。小学生用の勉強法がそのままでは大学生の勉強に役に立たないように、大学入試の時に成功した勉強法が、40歳の仕事に直接、役に立つわけではない。勉強しながら、現在の自分に最適の勉強の仕方を探り続け、改良を続けることで、初めて能率的な勉強をすることができるのである。

 だから、脱時空勉強術は、特定の方法にこだわらず、読者が勉強方法を改良する時の方向性を示すことを目指している。これまでに書いた方法論以外にも、沢山の技はあるが、それをすべて紹介するのは、脱時空勉強術の本旨ではない。

 たまに、学生から「先生。脱時空勉強術をなかなか実行できません」

などと言われる。その発言自体、脱時空勉強術を分かっていない証拠である。

 私だって、24時間365日10分単位で勉強しているわけではない。勉強がうまく進んでいるのならば、脱時空勉強術の個々の記述などにこだわることなく、そのまま勉強すればよい。整理が好きなら、整理をすればよい。1冊の本に情報をまとめるのが嫌ならば、5冊にしたっていいし、パソコンに打ち込んだって構わない。

 今、自分がやっている方法のメリットとデメリットを知り、時空を有効に使うことを目指せば、脱時空勉強術的にはOKである。自分の方法を常に検証し、うまくいかないと感じた時は、基本的な考え方に立ち戻り、やり方を調整する。その臨機応変こそが、脱時空勉強術である。


臨機応変こそ、社会の矛盾を乗り越える唯一の方策

 脱時空勉強術は、今いる時間と空間の限界に悩みながら、それをポジティブにとらえて、時間と空間を作り出して前進する。常識に沿って行動しながら、常識を疑い、常識外の改革を行う。日々の仕事を大団円でまとめながら、自らは余韻を残して、次の課題に取り組む。

 どれも根っこは同じであり、「現実を見て、現実から逃げず、現実に満足しない」という臨機応変の思想に基づく。

社会は、矛盾に満ちあふれている。矛盾は、人と人との考え方の違いから生まれる。人それぞれに考えがあり、また、時の流れに従い考え方が変化していく以上、永遠に矛盾が無くなることはない。矛盾から逃げることは、社会から逃げることを意味する。

 臨機応変を旨とする脱時空勉強術は、矛盾に悩み、矛盾を楽しみ、自在に変化することで矛盾を乗り越える技術である。

 矛盾にぶつかって自分を見失わないように、自分がコントロールできる小さな単位で課題を処理し、一歩だけでも前進する。そして、大きな目標と小さな課題処理の結果を見比べながら、その場その場で最善と感じる方法を選択して一歩一歩進む。

 そうすれば、いつか、別の視点が生まれてくる。社会の矛盾は、人の意思の産物だから、その人の意思が見えるところにたどり着けば、矛盾を乗り越える道が見えるものである。

 脱時空勉強術も、時の流れに応じて変化していく。勉強術が大団円を迎えてしまっては、すぐに硬直化と陳腐化が始まる。

 読者の皆さんも同じである。脱時空勉強術を読んで「これからは、1つの勉強方法にこだわるのはやめよう。臨機応変にいこう」と思ったあなた。その考えは、脱時空勉強術的ではない。臨機応変にこだわり始めたとたんに、臨機応変ではなくなるのである。いたって天の邪鬼な考え方であり、かなり申し訳ない。


脱時空勉強術にも終わりはない

 脱時空勉強術の次なる目標は、勉強術史上初の「笑って泣ける勉強術」に進化することである。この連載の読者コメントを拝見させていただき、私の文章力不足のせいで、細かい方法論の紹介と受け止められてしまった点も多々あることを痛感させられた。

 私が勉強術を「理性」で語ってしまうと、読者はどうしても方法論の合理性や実行可能性に目が行きがちになる。しかし、意識的に実行しなければならないような勉強方法は、すぐに行き詰まる。

 脱時空勉強術が目指すのは、読者が無意識に実践することができる技術であり、楽しく困難を乗り越えるための意識改革である。そのためには、読者の「理性」だけではなく、「感情」に訴えかけ、心に根づくものにしなければならない。

 脱時空勉強術を読むと、大笑いしたり、大泣きしたりする中で、自然と次に進む道が見えてくるようになる。これが私の夢である。とんだ「夢オチ」で締めくくることになってしまったが、3カ月にわたる連載から解放された者の戯言だと思って聞き流してほしい。

 12回の駄文を読み通してくださった読者がいらっしゃるとすれば、その愛情と根気強さに対し心から感謝したい。いつの日か、より進化した脱時空勉強術をお目にかけることができれば、とは思うものの、目標の高さに身がすくみそうになる。

 まあ、そんな時でも、のんきに悩みを楽しむのが、脱時空勉強術の流儀である。